なぜ、北井一夫は隠岐で個展を開くのか? 第3章(最終章)

 高度情報化社会が到来している。人々が夢見ていた理想の社会が実現するはずだった。北井たちが、その見えない圧力に対して反抗を試みていた時代は過去のものとなったが、果たして私達はその暮らしに、生活に満足しているだろうか。

 どこか無機質で、白けた、諦め半分の世の中、ますます鮮明になる格差社会、見えない力、真綿でゆっくりと包囲されるような息苦しい世の中が現実になってきているような気がしないだろうか。政治が、マスコミが、時間をかけてゆっくりと崩れ始めているような妙な違和感。その中で進行する個人の砂粒化。その根っこが奪われつつある。

 北井一夫が第一回目に隠岐を訪れた1974年当時、人の流れに従って、写真の世界も発展する都市部に目を奪われている人間ばかりだった。家族のつながり、地道な労働、鎮守の森を守るという伝統への帰依、日本を支えてきた、しっかりとした中間共同体意識は抜け殻になっていた。北井は、それこそ根こそぎになった村の風景に注目した。

 —私たちは大事なものをどこかに置き忘れて来たのかもしれない。

 北井一夫写真展は1974、2003年の2回にわたって隠岐を訪れた際に撮影した未発表作品が中心になる。「何を撮っても、良く撮れていた時代だった」と本人が後に述懐している時期の作品群である。